梅雨の合間の五月晴れ、どんな楽しみ方をしていますか?
私は、愛犬と海に遊びに行っていることが多く、すでに日焼けをしています(笑)

さて、
【chocolat's Slow Life】第 十二回目はこれからの季節にピッタリの街<鵠沼海岸>をご紹介します。

《明るい太陽と静けさが同居する街 鵠沼海岸》

私の住む大船の隣り、藤沢市の南部に位置する鵠沼は、西は引地川で辻堂と接し、東は境川で片瀬と接しています。
このうち、小田急電鉄江ノ島線よりも海側に鵠沼海岸という住居表示が付けられています。
鵠沼は湿地が多く、そこに鵠(クグヒ)(白鳥の古名)が多く飛来していたことが鵠沼(クゲヌマ)という地名の由来といわれています
明治時代の地図を見ると、江戸時代に射撃練習場だったためもあり、ただの荒れ地でしかなく、せいぜいが漁村にすぎないのですが、
在留外国人が保養地として目をつけ、また大規模な別荘地、療養地、避暑地として東京・山手の人々が使いだして、現在の町が形成されていきました。

まず始めに、潮の香りと風に誘われて、国道134号線を渡って鵠沼海岸に出てみました。

砂浜と国道の境には、防砂のための松が帯状に植えられ、美しい景観となっています。

134号線を渡ると、県立湘南海岸公園が海岸線に沿って広がっています。
湘南海岸公園は、東洋のマイアミと呼ばれるこの一帯を神奈川県が整備したもので、江ノ島のたもと、境川河口の西側から、引地川河口の東側までがそのエリアになります。

ここは、湘南海岸公園サーフビレッジという施設で、公園利用者の利用拠点として平成9年6月に開館しました。
この辺りの海岸は、サーフィンやビーチバレーといったマリンスポーツが盛んで、こうしたスポーツを行う人々の活動本部としての機能を担っており、
また公園に遊びに来る人々へのサービス提供施設としても活用されています。

公園内にある<平和の像>というモニュメントです。
この平和の像は、20世紀初頭よりくり返された戦争により、犠牲となった方々を顕彰するとともに、恒久平和への願いを込めて、藤沢市民と市により昭和40年建立され、公園整備により現在地に移設されました。

    

実はここ、鵠沼海岸は日本のビーチバレー発祥の地でもあります。
日本でのビーチバレーの始まりは、昭和62年に鵠沼海岸で開催された「第1回ビーチバレージャパン」なのだそうです。
夏場には毎週末、大会が行われているほど今でもビーチバレーが盛んです。
藤沢市観光協会では、このスポーツの普及にと数年前から施設を建て、コートを常設しボールも貸し出しています。

江ノ島をバックに、美しい波間を眺めたり、ビーチスポーツに興じる人達を観戦したり・・・
ここでの過ごし方は、本当に様々な楽しみがありそうです。

公園内には<聶耳記念碑>が建立されています。聶耳は、現在の中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」を作曲した人です。
1935年(昭和10)、聶耳は遊びに来ていた鵠沼海岸で遊泳中の事故により亡くなりました。
市民の間から、追悼の意を込めて記念碑をつくり、それを広める運動が始まり、1954年(昭和29)に聶耳の記念碑ができました。
碑は一度、台風によって流されてしまいましたが、その後再建され、1986年敷地を拡張して、聶耳記念広場として再整備されました。

碑にカバーがかけられているのは、心ない人達による落書きが絶えないからだそうです。残念なことですね・・・
手前にあるのは、建築家・山口文象デザインの碑です。
真ん中の3つの四角い出っ張り、4ヶ所の線刻で、上から見ると「耳」の字になっています。線刻が4ヶ所で「耳」が4つ、すなわち「聶耳」を表しています。

公園を出て、また134号線を渡って鵠沼海岸駅方面に戻ります。
賑やかな海岸方面の雰囲気とは一変し、国道から内側に入ると静かな住宅地が広がります。そもそも鵠沼は、別荘地として明治25年頃に開発された街。
今でも松の木で覆われたお屋敷などにその名残が見られます。

明治20年頃、宮内省で御用邸建設が検討され、その候補地として葉山と鵠沼が選ばれました。
結果として御用邸は葉山に建設されたため、それ以後、鵠沼海岸では別荘地としての開発が進められたのだそうです。
また、別荘のほかに数件の旅館も建てられましたが、中でも有名なのが<旅館東屋>でした。
東屋は、鵠沼海岸開拓の祖といわれる伊東将行が開業した旅館であり、広大な敷地を有していました。
久米正雄、武者小路実篤、芥川龍之介、菊池寛など、大正ロマン時代の多くの文人が逗留し創作活動に取り組みました。
大正11年の関東大震災で東屋は壊滅的な被害を受け、翌年再建されたものの以前の重厚感はなくなってしまったといわれています。
昭和14年に旅館としての歴史は閉じられ、その後は料亭として営業を続け平成7年に閉店しました。
現在の鵠沼海岸には東屋の名残は見られませんが、跡地には「旅館東屋」の碑が建てられています。

2005年春、最後まで残っていた東屋裏門遺構の門柱が、宅地開発により撤去されてしまいました。撤去された門柱はその年の6月、鵠沼公民館裏庭に移設され、保存されることになりました。

昭和4年に小田急江ノ島線が開業し、鵠沼海岸駅前に商店の立地が始まりました。当初は、別荘への御用聞きを原点とする商店街だったそうです。
現在の鵠沼海岸商店街は200以上の店舗があり、古きよき商店街の名残りと、新しいお店とが上手く共存し、地元の人達に親しまれている商店街となっています。



 

 

             


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